合気道の歴史の概要
合気道は大東流合気柔術に端を発しています。合気道と大東流合気柔術は全く別の武術ですが、端を発しているという関係性は両者を見ると感じる事が出来ます。
大東流合気柔術の起こりは清和天皇の第6皇子である貞純親王にあると言われています。そして、その子孫に受け継がれていきました。明治時代になって武田惣角(たけだそうかく)先生が大東流合気柔術を一般公開し、植芝盛平先生が学ばれました。植芝盛平先生は大東流の他に様々な日本古来の武術を学ばれていたので、ご自身で工夫をされて大東流とは違う武術、その名を合気道という武道を確立されました。
植芝盛平先生が名人と称されるのは、実際の戦いを制する事少なからず、そしてこれまでなかったものをつくり出したからです。
植芝盛平先生が辿り着いた流麗な技は、そのまま植芝盛平先生のご子息に受け継がれ合気会の技となっています。
植芝盛平先生に合気道の指導を受けた門人の一人が塩田剛三先生です。塩田剛三先生は後に、養神館という自分の団体を立ち上げました。
養神館の合気道は、植芝先生の境地である流麗な動きを初心者のうちは行わず、構え、基本動作、などを整理しました。初心者のうちにおいて、技は一度に流麗に動き切らず、動作を区切りながら力を込めて行うものとなっています。
人と人の争いごとは、心の暗闇のぶつかり合いの体現となります。真の実戦を幾度となく潜り抜けた塩田剛三先生は、自身の合気道から実戦性という心の暗闇につながる部分を排除し、明るく爽やかな気持ちで取り組める合気道を弟子達に伝えました。それが養神館の合気道の特色となっていています。
植芝盛平先生が大東流合気柔術から、似ているように見えて明確に異なる合気道を作りあげたのと同じくらいに、植芝盛平先生の合気道から、明確に異なる養神館合気道を作りあげたという点が評価され、塩田剛三先生もまた名人と称されています。