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シティーハンター 天使の涙をみました

指導部の久島です。

「劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)」という作品を観てしまいました。

今から20年以上前に羽田空港の書店で「エンジェルハート」の第1巻(初版)を買って、書店を出て最初の数ページをパラパラめくって、
「読むのをやめようか」
と思ったのを思い出します。

シティーハンターで主役の冴羽獠のパートナーだった槇村香が、交通事故で亡くなってしまう事から話が始まりました。我慢してストーリーを辿っていったのですが、そういう設定ならば何も香を死なせる必要はないと思いました。

そもそもシティーハンターでは槇村香の実兄である槇村秀幸が殺害されています。あまりにも救いがない話です。作者である北条司氏は精神が病んでいるのだろうか、と私は思いました。

センセーショナルな設定で話題を呼び作品を売ろうとしているなら、それは私のような読者を切り捨ているというメッセージだと思い、エンジェルハートも1巻を最後まで読み切らないで、読むのをやめました。

その数年後に、エンジェルハートはシティーハンターのキャラクターを使った別作品とか、パラレルワールドだという話を聞きました。エンジェルハートが連載された当初、私と思いを同じくする読者達が、北条司氏に猛烈な抗議をした、という事も後で知りました。私も抗議をすれば良かったです。

私が購入したエンジェルハートの第1巻には、シティーハンターとは違う世界の話だという注意書きはありませんでしたが、増版された第1巻には注意書きがあるそうです。

そんな北条司氏の「シティーハンター エンジェルダスト」なのですが、また重要な登場人物を殺してしまいましたよ。この人を殺してはダメでしょう。そもそも冴羽獠の依頼人です。そして何の為のキャッツアイとルパン三世の特別出演なのでしょう。

私は武道の道場を運営しています。武とは、結論を言えば、命を救う為に戦う意志と実力の事です。

時代劇でも賊に追われた人が、通りがかりの武士に
「お侍さん、お助け下さい!」
と救いを求めるシーンがあると思います。そこで
「うむ、ここは拙者に任せよ。」
と賊の前に立ち塞がる武士こそ、武士道の体現そのものです。

シティーハンターはまさに現代版武士道と思っていました。だから、救いを求めてきた人を簡単に殺してしまうような設定は、シティーハンターという作品全体の世界を壊す行為と考えます。それゆえ、人の命を簡単に奪ってセンセーショナルな雰囲気を作り出そうという手法は、シティーハンターでは取って欲しくなかったです。

そして、キャッツアイとルパン三世が特別出演しているのだから、彼らの見せ場をつくるべきだと思います。冴羽獠やシティーハンターのキャラクターだけでは切り抜けられない状況だからこそ、伝説の主役達が助っ人に入り、
「次元キター!!さすがだ次元!」
「キャッツ、カッコいい!!」
というような興奮と感動を私達に与えて欲しかったです。

変装の名人であるルパンが、どんでん返しに近い、それこそハッピーでセンセーショナルな結末へ向けて冴羽獠にキラーパスを投げ渡し、冴羽がきっちりと決める。
「借りが出来ちまったな。」
という冴羽に対して、ルパンが
「なーに、困った時はお互い様よ。じゃーなー。香ちゃんと仲良くなー!」
と言って去って行く。

こういうのを私は見たいのですよ。というか、何で私はこんな妄想をしなければいけないのか。

「俺が創った作品なんだから黙って観ていればいいだろう!」
と言う北条司氏の言い分はあると思います。そうかもしれませんが、こうした批判は、北条司氏が創り出したキャラクターや基本的な世界観が、いかに素晴らしいか、という証明でもあります。

そして何より、殺す事で命の大切さを訴えるなら、死闘を経てでも命を救う事で、命の大切さを訴えた方が、キャラクターは活きるし、訴えはより多くの人の心に響くと思います。

逆に、人の命を簡単に奪うような輩には、容赦なく357マグナム弾(冴羽獠の愛用の銃で使う)を撃ち込むべきです。