神衛は、型稽古である一般の稽古の他に、戦技研を行っています。一般稽古と戦技研の両方があって、神衛という団体が成り立っている、つまり戦技研は神衛の存在意義を示すものと言えます。
(1)養神館合気道を後世に伝える為
合気道は型稽古の武道です。その型(技)を変えたり、試合をしたり、という取り組みは、神衛では否定しています。(合気道の型稽古の型とは、つまり技の事を言います)
技の意味を追求し、その理解を実際の戦いに応用出来るようにしていく、これが神衛の基本方針です。
技の意味を追求 = 伝統の継承(一般稽古、黒帯研修)
実際の戦いに応用 = 最新鋭の戦闘技術の研究(戦技研)
養神館合気道の強さを証明し、それを後世に伝える為に戦技研は必要です。
(2)戦いに対応する心構えをつくる為
殺気や怒号が渦巻く騒乱の場と、道場の稽古の雰囲気は全く異なるものです。
いきなり突然、平和な空気を壊して襲って来る礼も何もない暴力の現場は、礼で始まり礼で終わる合気道の稽古の場とは、一般の人には別世界と言えるほど解離しています。
暴力が行われる場は、狂気に支配されています。
理不尽で卑劣な殺意が、自分に襲い掛かってくる場と言っていいでしょう。
訓練を受け指揮統制された部隊どうしの戦闘であっても、相手の顔が近い状況となれば、それは似たようなものと考えられます。結局、人間対人間の直接対決は、殺意と殺意のぶつかり合いとなるからです。
合気道は型稽古です。型稽古は約束事です。それは合気道の動きの本質を追求するには優れた稽古方法です。そして稽古においては、礼に始まり、礼に終わり、稽古相手に感謝の気持ちを持つ事を忘れてはいけません。
狂気が渦巻く暴力の場と、そうした合気道の稽古には、解離した部分があります。
そして、狂気が渦巻く暴力の場と、そうした合気道の稽古において。合気道の稽古自体は、精神鍛錬の基礎とはなりますが、狂気が渦巻く暴力の場に備えて鍛えるべき精神力の方向性が違っていると神衛では考えています。
以上の事から、狂気が渦巻く暴力の場において、正しく冷静に対応出来るような精神的な強さを身に付ける為に、戦技研は必要です。
(3)新興宗教のようなカルト団体の様相になる事を防ぐ為
合気道は型稽古です。一定の条件下で成立する約束事を、技としています。条件が整わなければ、型稽古の技は成立しません。
しかし、武道の経験がない一般の人にとっては、そのような事を理解する事が出来ず、約束事から外れた状況には全く対応出来ない(実戦能力がない)合気道指導者を「強い」と勘違いしてしまう環境があります。
※参考 格闘偏差値という概念(ブログ「真実を追求する姿勢」)
また、本当は強くない事は分かっていても、そうした人物を「達人」として祭り上げて、自分達はその高弟になって活動している団体もあります。
そのような団体は、強くない事が露呈しないように色々とやって、結局は「達人」を教祖に模した新興宗教のようなカルト団体化をしていくようになります。
神衛が、そうした団体にならないように戦技研は必要です。
(4)平和の国の日本であるから戦技研は必要
日本人は平和ボケをしている、という声は以前よりずっと聞かれます。そして、恐らくそれは間違えていません。第二次大戦後、GHQは日本において武道を禁止しました。日本人が持つ武士道の精神を欧米各国が恐れたからです。その結果、合気道の開祖である植芝盛平先生は、公職追放により茨城県の岩間に隠棲される事になりました。
合気道を日本の文化の一つとして捉える時に、こうした歴史を忘れてはいけません。そもそも合気道の理合は剣術の理合です。そこには武士の精神があるのです。
犯罪はいつの世にもなくならず、凶悪な事件は後を絶ちません。いつ起こるか分からない凶悪な犯罪に、いつでも立ち向かい、これを制圧する心のあり方は訓練をしないと育まれません。その為にも、平和な国の日本に住む私達にこそ、実戦対応訓練である戦技研は必要だと考えます。